坐禅と瞑想は何が違うの?瞑想歴10年の私が説明してみた【瞑想】

2019年6月14日

座禅する男

この記事では坐禅と瞑想の違いについて解説しました!

多くの方にとって坐禅の第一印象って“禅問答"のイメージが先行しがちですよね。「片手の音ってどんな音?」とか不思議な質問で困惑させられたり、禅寺に行ったら後ろから突然、棒(警策)で叩かれて泣きそうになったりするやつですね。

一方最近ではマインドフルネス瞑想など瞑想法が流行していますが、座って目を閉じて呼吸に意識を向け続ける……やっていることはとても良く似ていますね。では坐禅と、瞑想の違い何なのでしょう?

今回は、

  • そもそも坐禅(禅)とは一体何なのか?
  • 禅(坐禅)とほかの瞑想の違いは?
  • 坐禅の方法について

これら3点を見ていくことにしましょう。坐禅や瞑想に関心のある方、必見です!

※なお、解説に当たっては主に鈴木大拙『禅学入門』・大森曹玄『参禅入門』(ともに講談社学術文庫)を参考にしています。

※当ブログで禅を取り扱う理由
当ブログはニューソート・引き寄せをメインコンテンツに扱いますが、心をうまくコントロールするために、瞑想にも深い関心を抱いています。

日本の瞑想と言えば坐禅であり、瞑想とも深いかかわりがあると考えてコンテンツとしました。マインドフルネス瞑想をはじめとする他の瞑想法との違いに注目することがこの記事の目的です。

なお余談ですが、鈴木氏も大森氏も臨済宗のため(曹洞宗などを取り上げないのは)偏りがありますが、2冊とも禅について広く言及する良書であるため、今回はこのまま記事としています。

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坐禅の"禅"って何なの?

だるまさん

坐禅を行うのはもちろん仏教宗派の禅宗ですが、これは仏教の中でも特別な存在。

坐禅を理解するためにまずは"禅"について簡単に理解しておきましょう。

※そもそも禅宗って?

禅宗は、坐禅による内観を通して、心性を明らかにしようとする仏教の一派です。仏教がインドから中国に取り入れられたときに成立しました。

宗祖は達磨(6世紀ごろ)ですが、宗派として成立したのは6祖の慧能(えのう:638-713)のときからであり、それ以来中国には禅宗五家が成立。のち、鎌倉時代になって日本に伝えられるのですが、現在の日本では臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の3宗派が残っています。

禅は"最高真理"や"悟り”を意味する

もともと「禅」という概念は、サンスクリット語でディヤーナ※禅定(精神を一つの対象に集中させること)の意味で用いられてきました。

一方で禅宗の人たちが禅という時にはその禅定(心の集中状態)の先にある、体験的にしか知りえない最高真理(=悟りの境地)・それを体現している状態を指しているようです。

この真理なるものは、消極的定義しか受け付けないようなアイデンティティの塊で、そもそも言葉で表現できない心の状態。誰かが説明できた試しはありません。

かと言って特別というわけでもなく、ただ当たり前の事実を認めるのが禅だというのです。

禅は火を温かく、氷を冷たく感ずることである。寒き日には我々は震えるし、火に親しむ。『禅学入門』p.28

禅の提唱するところの瞑想は、すべて物をありのままに見ることであって、雪はいつも白く、鳥はいつも黒いとするのである。(同書p.29)

禅は日常生活そのものの事実を認めることによって、最も平凡な、そして最も平穏な、普通人の生活裡に現れているからである。(同書p.35)

※余談:禅定についてもう少し詳しく

精神統一という意味での『禅定』について。大森曹玄氏によれば、「禅」とは心を整える精神面・心を統一しつつある作用、「定」とは心が安定し統一された状態を指すとのこと。

さらに「定」の三昧境から世界を見る働きを「慧」と言い、定は必ず慧を発し、慧は必ず定に裏付けられる、としています(『参禅入門』p.37~39)。すなわち心を落ち着け、それによって心が安定した状態に導かれ、そこから世界を見る働きが生み出される、という捉え方をしているのだと思われます。

禅には哲学も、聖典も、教義もない

鈴木大拙氏が『禅学入門』(p.23)で触れているように、禅は多くの宗教にありがちな聖典や教義や形而上学的な思想体系も持っていません。そういうものを真理でないとみなし、苛烈に攻撃する傾向さえあります。

また禅は、空(くう)・無心などという言葉から虚無主義とも誤解されがちですが、それも違います。禅なるものを表現しようとするときに否定に否定を重ねるのはしかたない行為であり、その奥に積極的かつ永久に肯定的なものを提示するため(p.24)の示唆だと言います。

この一派(禅宗)は一般宗教史上にあって、いろいろな面で無比の地位を占めている。その教義は、理論的に言うならば、思索的神秘主義とでもいうべきであろう。

『禅学入門』p.13

この教義というのは、永い訓練のあとに洞察を得たものだけに表示される知識(p.13)であり、経験的にしか体得できないもののこと。

理屈よりも、禅という経験をとにかく重視するということですね。では、そのような禅宗が行っている坐禅とは一体何なのでしょう?

ここからは本題の坐禅と瞑想の違いを見ていくことにします。

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坐禅とほかの瞑想との違いは?

達磨比べ

坐禅と瞑想、具体的に何が違うの?といえばそれは、目的が違うという点がもっとも重要なポイントです。

瞑想には必ず目的がある

現在広く知られる瞑想法と言えば、マインドフルネスがありますよね。この一瞬に対して判断を加えず注意を向け続ける心の在り方を指しますが、マインドフルネス瞑想法を提唱したジョン・カバットジン氏は「臨床における心身の癒し」を目的としてこれを用いています。

また、GoogleのSIYカリキュラムでもマインドフルネスをベースに「情動知能(EQ)の管理」を目的にしました。

さらにさかのぼると、釈迦の提唱した(瞑想を含む)初期仏教の目的は「苦の克服」であったわけですが、このように類似する方法を取りながらもそれぞれ目的やテーマが異なっていることに気づいておく必要があるでしょう。

なら、坐禅の目的は?

これも確認しておきましょう。

仏教哲学者であり、海外でも名声の高い鈴木大拙が極めて簡潔に禅の目的を語ってくれています。

禅は洞察によって心の本性に達し、心そのものを見出し、自ら心の主となるを目的とする。……禅の修行は実在の理由を達観せんがために人の心眼を開くところにある。

『禅学入門』p.26-27

求めるところは悟りであり、その途中過程である禅定(心を落ち着けて統一した状態に入ること)には決してなく、まして心が楽になったとか、前より生活が楽になったとか、苦しみが無くなったいうことを頂点にはしないということです。

これについて、次のようにも表現しています。

禅には何か自己肯定のものがある。しかもそれは自由であり、絶対である。そして限界を知らず、抽象の取り扱いを拒むものである。……この溌溂(はつらつ)たる何者かと接触すること、否、人生各方面にわたってそれを捉えることがすべての禅修行の目的であるのだ。

同書p.49

禅の目的とは、絶対の境地(=悟り)を己に体現すること。禅宗は苦の克服や個人の幸福を目指しているわけではなく、それ自体のための修行を行っているわけです。

これは大森曹玄氏もまったく同意見で、坐禅の目的は坐禅なのだと言っています。

坐禅はほかに何か目的を立てて、それを追求するのが本意ではない。坐ることによってノイローゼをなおすとか、物に驚かない肚をつくるとか、……(そういうものではなく)本来はといえば、坐禅は坐禅のほかに求むべき目的がないのが正しい。

『参禅入門』p.47

だからこそ……(重要)

だからこそ、私たちは、同じように座って、同じように呼吸に注意を向けて、長い間座り続ける瞑想・坐禅というものの目的をはじめから明確に知っておかなければなりません。

悟りを開きたいのなら禅師に習うのがよいでしょう。坐禅とはそのための修行です。一方で、自分の心・生活・生き方の改善を目指していこうとする瞑想は、自己改善や癒しのプロセスなのです。これは禅では賄いえません。

今はどうかわかりませんが、瞑想よりも禅の価値のほうが上だと強調する人たちがたまにいますが、これは適切ではありません。目的が違うということは、テーマの異なる旅行のようなもので、手段が類似していてもプロセスも恩恵も目的地も何もかもが違うからです。

ところで、あの禅問答っていったい何だろう?

坊主が屏風

まったくの余談になりますが、禅問答にもちょっと触れておきましょう。

禅関係の本を読むと、たいてい高名な禅師たち(たとえば慧能・黄檗・南泉・趙州・百丈など)が登場し、奇妙なやり取りを展開してくれますね。

火を指して「私はこれを火と呼ぶが、お前は呼んではならぬ。それなら何か?」と問い詰められたり。猫の取り合いをおさめるのに突然刀で猫を切り殺してみたり。「これはAか――Aではない」「ではBか――Bでもない」「では何か?――私にはわからない」などと不思議な会話をしてみたり。

一般人には読めば読むほどわからなくなるし、猫を殺さなくてもよかったのではないかと心が痛むわけですが、ともかく禅の真理は言語で表現できるものではありません。だからこそ修行者は、彼らのやり取りの中の何かしらに真理を汲み取らねばならないのです。

言葉は単なる指標に過ぎない。……禅の師匠達が一体いかなる心的状態で禅を行っているか、まず熟く(よくよく)それを知るように努めなければならぬ。

同書p.50

すなわち禅問答とは、言語で表現することが困難な心理状態(境地)をひたすらに提示し続け、ときにその真理に到達するための契機とし、ときに悟境を試す当意即妙なやり取りのこと。専門家同士の難解な会話であり、面白くて聞き入りますが、理解には及びません。

坐禅の方法はどんなもの?

座禅

本記事の最後の内容である『坐禅の方法』。

当ブログではこれを勧めるものではありませんので、あくまで参考程度の紹介となりますが、ざっくり見ていくことにしましょう。

以下はすべて大森曹玄『参禅入門』を参考にしてあります。(禅には行住坐臥あるとされますが、ここでは"坐禅"の方法に限定します)

1. 体を整える(調身)

坐り方(下半身)

座布団(=orクッション)の上にすわるとき、正座でやる方法があります。このとき、膝頭の角度を50°にし、重心を会陰(肛門と性器の間の場所)に落とす形で背筋を伸ばします。

長時間座る場合は、結跏趺坐(けっかふざ)か半跏趺坐(はんかふざ)がオススメです。座布団の上に座り、さらにもう一枚二つ折りにした座布団をお尻に敷き、ふつうのあぐらをかき、右足を左の太ももの上に置き、さらに左足を右の太もものうえに置きます。これが結跏趺坐。

でも最初は足が痛いので「やっぱ片方だけ…」というのが半跏趺坐です。足が痛くなったら組み替えてもOKです。

手の位置

両手のひらを天井に向け、へそのあたりに持ってきます。右手を下、左手を上にして、重ね合わせ、親指同士をくっつけます。これを法界定印(ほっかいじょういん)といいますが、これでふわふわしがちな手を安定させます。

背骨(姿勢)

お尻から頭のてっぺんまで一直線になるように座り、顎を引きます。(力は入れなくていいでしょう)胃のあたりには力を入れないようにする必要があるそうです。

2. 息を整える(調息)

まず深呼吸します。のどや胸の力ではなく、下腹部を収縮した力で、長々とゆっくり、胸の空気がなくなるくらいまで吐きつくしていきます。吐き尽くすして下腹を緩めると、自然と鼻から空気が入ってくるのでそれが満ちるのを待つ。満ちたら、息を閉じて軽く下腹に押し込むイメージ。

そしてこの深呼吸を4~5回程度繰り返すと、座る前の雰囲気から完全に離脱できる。そのまま、腹式呼吸・丹田呼吸を意識していきます。このときには、ゼーゼーいったり、呼吸が不規則になったり、あらっぽいのはダメで、微細でスムーズな呼吸が理想とされます。

3. 心を整える(調心)

数息(すうそく)観と公案工夫があるようですが、前者が広く知られるのでこちらを紹介します。

読んで字のごとく「息を数える」方法で、特に出る息・吐く息を主に数えるのが良い、というのが大森氏のオススメ。

出る息の行方を心の眼で追うようなつもりでヒトーと長く数え、次に吸う息をツーと数える。……心ではその気持ちで数えていく。出る息は自分の臍下丹田にい向かって吐きかけるようにするのがいい。

『参禅入門』p.70

1から数え始めて10まで数えたら、また1に戻って数え直していく、という流れです。

心を込めて、一心不乱に数え続けることによって、散乱した心がまとまるだけでなく、「前後切断」「非連続の連続」といったものを体得する契機になりうることを大森氏は指摘しています。

4. その他

坐る時間

30分から40分ほど座ると良いようです。長さで質が決まるわけではないので、短くても充実したものもあれば、長くて無益なものもあるでしょうが、坐禅においては線香(が燃える)一本分の長さが標準ではないだろうかというのが大森氏の意見ですね。

これを1日一回(夜寝る前)に行うか、できるなら一日に2回以上行ったほうが良いようです。

坐を立つときの注意

坐禅の終わり方は非常に重要です。静止した体の状態を、左右に少しずつ揺り動かしていき、はじめは静かに行い、数十回ゆったり繰り返しながらわずかずつ動きを大きくしていきます。両肩・両手・顔・手首などを動かし、足を解いてしびれを癒すという流れになります。

このときに「パッ」と立ち上がってはいけません。気分が悪くなります。かならず、上記の手順を経て、坐禅をしている状態から少しずつ動きを取り戻していき、体の感覚を取り戻して、ゆっくりと立ち上がりましょう。

まとめ

いかがだったでしょうか。

なんだか、坐禅のやり方を結構細かく書いてしまいましたが……今回は「禅とは何か」を説明したうえで「坐禅と瞑想の違いは何か?」という話がメインテーマでした。

少なくとも、精神的な苦痛を和らげたり、仕事や勉強のパフォーマンスを向上させたり、あるいは願望実現の一助となるように瞑想を利用するということがあると思います。

それぞれに応じた瞑想法があり、自分に合ったものを選ぶべきです。坐禅は魅力的ではありますが、己に救いをもたらすために行うのではなく、(もちろん衆生済度や四弘誓願~~といったテーゼもあるのでしょうが)ただただ悟りを求めていかんとするもの。

間違えても禅寺に行って「願いを引き寄せたいんですけど、坐禅していいですか?」とか言い始めたら、座ってもいないのに警策(棒)で叩かれるかもしれません(し、叩かれないかもしれませんが)、とにかく注意してくださいね。

参考文献

大森曹玄(1986)『参禅入門』講談社学術文庫

鈴木大拙(2004)『禅学入門』講談社学術文庫 (1940年に大東出版社から刊行されたものの文庫化)

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